今日は朝からとても良いお天気。
私はゼプツェンの胸の上で空を仰ぎ、額の汗を拭いました。
こうして、ユグドラシルの甲板に横たわったゼプツェンを磨くのは、私の欠かす事の出来ない日課です。
そうして空を見上げて…シェバトの事を思いました。
今、シェバトは私たちとの連絡の為、バベルタワーの上空で停止していますが、いつも通りに飛んでいれば、この辺りはシェバトの移動経路に入っている筈でした。いま、補給のためユグドラシルはニサンに向けて進路をとっています。
(行きなさい、マリア。)
蒼穹を見つめていると、ゼファー様の声が耳の奥に蘇りました。
(生きる理由を、自分の手でつかみとって来るのです。)
どんな時も私を励まし、勇気づけてくれた、強くて優しい…けれどもう既に遠い声でした。
「はい、ゼファー様。私がんばります。でも…」
そう呟いた時、
「マリアさん」
下で私を呼ぶ声がしました。
「はい」
返事をして、ぴしゃぴしゃと頬を叩くと、私はゼプツェンの脇腹を滑り降りました。
「…ビリーさん?」
私を呼んだのはビリーさんでした。
ビリーさんは妹のプリムちゃんをとても大事にしている、優しいお兄さんです。
どんな時もプリムちゃんを守って懸命に生きてきた人なのだと、エリィさんが教えてくれました。
でも…私はどうしてなのか、ビリーさんが苦手なのです。
「あの…何か」
「マルーさんとエリィさんが、ケーキを焼いてくれたんです。お茶にしませんか?」
屈託の無い笑顔で、ビリーさんは言いました。
「でも、まだ終ってないですから…」
私は困って下を向きました。広い甲板をビリーさんとずっと歩いていくのは、気が引けました。
「じゃあ、僕手伝います。ギア磨きや整備には慣れてますから」
腕捲りを始めたビリーさんに、とにかく先に行って貰おうと口を開き掛けたその時。
ゴトッ、という音がして、続いて誰かの囁き声が聞こえました。
「誰ですか?」
はっとして声をあげると、ゼプツェンの足の陰から、バルトさん、フェイさん、エメラダさん、そしてチュチュが姿を表わしました。
「よ、よう!遅いから迎えに来たぜ」
何故かひきつった顔で、バルトさんが片手を上げました。
「よ〜す、見にっ」
元気に声を上げたエメラダさんを、
「そ、そうなんだ。心配だったんで、迎えに来たんだっ!」
フェイさんの大声が遮りました。
「でちゅ、でちゅ!」
フェイさんの足元で小刻みに頷いているチュチュに歩み寄って、頭を撫でました。
「そうだったの。ごめんね、チュチュ。今いくわ」
ぴょんぴょんと跳ねるチュチュ並ぶと、
「みなさん、わざわざすみませんでした。それでは、行きましょう」
私は、ほっとして甲板を歩き出しました。
艦内に降りた私達は、メイソンさんのバーにある、大きなテーブルを囲んでお茶を頂きました。
エリィさんとマルーさんの作ってくれたお菓子はとても美味しくて…暖かい紅茶の満たされたカップを両手で包みながら、なんだか、こうしているのを不思議に思いました。シェバトでは…いいえ、物心ついた頃から、私はこんなに大勢で食卓を囲んだ事はありませんでした。
だからかもしれません。此処に来てから、皆とどう接したら良いのか解らず、少し戸惑っています。
皆の笑顔を損なわないよう…そっと、私はため息をつきました。
「エメラダさんが、行方不明?」
私は驚いてバルトさんを見上げました。コンソールの燐光を背景に、バルトさんは苦り切った顔で肩をすくめました。
「あぁ。クレスケンスの機能測定の為に、外に出てたんだが…。
飛翔速度の測定中に、レーダーから消えた。どうやら予想以上に速くて、捕捉しきれなかったらしい」
「そう、ですか…。わかりました。消失地点を教えて下さい。けれど、ゼプツェンの飛翔速度で追いつけるでしょうか?」
あいつも加減ってモンを知らねェんだからな〜、と頭をかきむしっていたバルトさんは、その言葉で我にかえって、
「その事なんだけどな。もともと試験飛行だから、あまり燃料を積んでねェんだ。だから、今は燃料切れで停止してる可能性が高い。ゼプツェンなら、なんとか運んでこれるだろ?」
納得して私は大きく頷きました。
「ええ、大丈夫です。それでは、行きます」
言って、踵を返しかけた私を、あわててバルトさんが引き留めました。
「あ、待った。行くときは、レンマーツォと出てくれ」
「ビリーさんとですか?」
言ったあとで、困惑が声に出なかったろうかと、私はうつむきました。
「あぁ。単独行動じゃ、二重遭難の危険がある。それに、クレスケンスを抱えてちゃ、万一の時に応戦出来ないだろ?」
そうでした。二人一組みのバディシステムは作戦行動の基本です。なんとなく苦手、という自分の気持ちがいかにも子供っぽく感じられて、私は内心赤くなりながら頷きました。
「わかりました。レンマーツォと協力して、クレスケンスの捜索にあたります」
「エメラダさん。エメラダさん、返事をして下さい」
インカムに向かって繰り返しましたが、レーダー同様、反応がありません。
「どこにいるの…」
切り立った崖から出来る限り身を乗り出して眺めると、私は呟きました。
ゴツゴツしたむきだしの黄色い岩で覆われた崖の下から、砂まじりの風が吹き上げては髪をなぶります。眼下には、果てしない砂の海が広がっていました。
反対側を調べていたレンマーツォが、こちらを向きました。
「マリアさん、そっちはどうですか?」
私は黙って首を振りました。クレスケンスはキスレブ方面に向かったという事でしたが、燃料から考えてこれ以上北に行っているとは考えられません。
「なのに、どうしてみつからないの…」
大陸中央部の砂漠では、様々な動物が凶暴化してしまっているといいます。
エメラダさんが危険なめに遭う前に見つけてあげなくてはという思いが私を焦らせました。そしてもう一つ、私には…恐れている事がありました。
けれど、今は自分のことよりエメラダさんのことを。怖さを振り切る様に顔を上げ、唇を噛んで砂漠を見つめました。
「もう少し…キスレブ国境近くまで行ってみましょう」
崖を降りようと覗き込んだとき、ガクンという衝撃を感じて、私は短く叫びました。
「マリア…さ…」
インカムが外れてビリーさんの声が遠くなり、一瞬、何が起きているのか解らなくなりました。
視界にせまる砂の海をみて、何かにつき落とされたのを知りました。とっさに背部ブースターの出力を上げ、体勢を崩しながらも200シャール程離れた崖下に着地します。
同時に周囲をスキャン。グラビディーカノンの安全装置を解除。
ごく短い瞬間のその作業が、私にはコマ送りのようにゆっくりと感じられました。
ゼプツェンと同調している時の、不思議な感覚。様々な情報を瞬時に得て、そしてそれを処理する。まるで、自分が自分ではなくゼプツェンというギアに組み込まれた回路の一つになったような感じです。もっと同調して、もっと感覚を一つに。そうしたら、私はもっと強くなれる。
口の中の、ざり、という砂の感触が、私を現実に引き戻しました。
私の眼が捕えるよりも早く、ゼプツェンは襲ってきた相手を捕捉して、情報を送り込んで来ていました。けれど、その情報に私は慄然としました。
私が恐れていたもの。
ウェルス……!
半ば溶けかかった眼窩の底の、かつてヒトであった事など忘れたかのようなどろりとした視線をうけて、私は凍りつきました。生臭い風が、頬を叩くように吹き付けます。
「あ…」
視線を外せないままの私を見て、その濁った眼が、笑うように細められました。
動かなくちゃ。戦わなくちゃ、殺される。でも。
お父さん……!!
次の瞬間、目の前でウェルスの頭部が弾けました。
頭を失った体に続けざまに銃弾が打ち込まれ、その体はどう、と砂に沈み込みます。
私は瞬きする事もできずに、呆然とそれを見つめていました。
「………って………す!」
はっとして、外れたままのインカムを着け直しました。
「何をやっているんです、マリアさん!」
今まで聞いた事も無いような怖い声で、ビリーさんが怒鳴っていました。
振り向くと、まだ銃を構えたままのレンマーツォが崖の上に見えました。
「怪我は無いですか、マリアさん……マリアさん?」
何か応えなくては。ありがとう、だいじょうぶです、と言わなくては。そう思うのに言葉が出てきません。
代わりに出てきたのは、
「どう…して。どうして殺せるんです!人なんです。人だったんですよ!」
自分でも、思いもよらない言葉でした。
「マリア……さん」
その声のトーンに、ハッとして私は両手で口元を押さえました。
「すみません、わたし……!わたし………」
胸の奥がぎゅうっと締め付けられるように痛んで、声が掠れました。
「すみません………」
立ち尽くしたまま、私は動く事も、顔を上げる事もできませんでした。
強さを増した砂漠の風が、体中に、容赦なく砂を打ちつけていました。
どうやってユグドラシルに戻ったのか、覚えていません。
エメラダさんを探さなければという私を半ば強引にビリーさんが連れ戻して…、私達の代わりにフェイさんとリコさんが出てくれる、というのを聞いてすぐ、足の先からすぅっと冷たくなり、目の前が真っ暗になりました。
気がつくと、医務室のベッドの上にいました。
首をひねって周囲を見渡すと、部屋の中には私一人でした。
静かで、冷たい空気。遠くでざわめきが聞こえます。
私は大きくため息をつくと、眼を閉じて自分の言った言葉を思い返しました。
あれは、ビリーさんにではなく、自分に言わなければならない言葉だったのに。
シェバトのあの事件以来、それはずっと心にわだかまっていた事です。
かつて、私を守るためにソラリスでお父さんがした事…そしてその結果。
私を人質にされ、人機融合ギアの開発を強要されていた、お父さん。ヒトの脳をギアに繋ぐその実験の為に、ソラリスでは地上の人を捕えてウェルスに変異させ、ギアの部品にしていた…!
解っていた筈なのに、シェバトに居たときだって、ウェルスとは戦った事はあるのに。
改めて目のあたりにして、私は平静ではいられませんでした。
あのひと…シェバトに侵入したゲブラーの女性の言葉が、消せない呪縛となって、何度も私の心を刺すのです。
(私はウソはつかないよ、マリア。こいつは、真実だ。)
嫌だ、思い出したくない。けれどいくら耳を塞いでも、心に打ち込まれた楔は、何度も繰り返しその言葉を私に投げつけます。
(あんたの立派なお父様は、人と機械の融合に成功し、地上人にとっての地獄の門を開けちまったってわけさ。)
嘘だと言って、お父さん…!
息が詰まる程に枕に顔を押し付けても、涙は次々に零れて、薄く消毒薬の匂いのする布に染み込んでいきました。
いつの間にか、眠ってしまったようでした。
どれくらい時間が経ったのでしょう。眼をあけると、室内の灯りは落とされて、ぼんやりとした非常灯だけがうす青く灯っていました。
起き上がろうと半身を起しかけて、簡素なパイプベッドの傍らに人が座っているのに気付きました。
「ビリーさん…」あおじろい薄闇の中で、ビリーさんは憐れむように私を見つめていました。
「軽い貧血と、あと疲労からくる微熱だそうです。
まだ小さいのに、無理させちゃいけないって、看護婦さんに叱られました」
「そんな。私、子供じゃありません」
聞き捨てならない思いで声を上げると、ビリーさんは静かに首を振りました。
「泣き疲れて眠ってしまうのは、子供だけです。僕は…眠れなかった。
母が殺されたとき」
私は、息を詰めてビリーさんを見返しました。
優しく整ったその表情は静かで、凪いだ湖を思わせます。
湖底の景色を地上からは決して見ることが出来ないように、その表情の下の哀しみや苦しみも、私には推し量れないものでした。
「たったひとりで、プリムを守って生きていかなきゃならなかった。明日の事を考えていると眠れなくて、いつも夜が明けるのを見ていた。
…マリアさん、僕の母親は」
そこで一旦言葉を切って、何かに苛まれるような表情で続けました。
「母は、ウェルスに殺されたんです」
身を切られるような沈黙のあと、私は辛くなって頭を垂れ、きつく毛布を握り締めて、なんとか言葉を絞り出しました。
「すみません…。ウェルスは…私の父が………。父は、私の為に非道の実験に手を貸して…」
「それは…知っています」
ならば次に来る言葉は、おとうさんと私への弾劾しかないような気がしました。
けれど、ビリーさんの口から出たのは思いもよらない言葉でした。
「でも、誤解しないで下さい。僕がウェルスを滅ぼすのは復讐の為じゃない。いや、確かに昔、そうだった時もあった。自分では気付いていなかったけれど…」
ビリーさんは青白い光のなかで、じっと自分の掌を見つめました。
今も、そこに滴る血の跡が見えているかのように。
「ウェルスの正体が人間だと知った時、僕は立ち直れないと思った。
僕は自分のしてきた事を正義だと思っていたから…だから化け物を滅ぼしていた筈の自分が、突然殺人者になってしまった事に、耐えられなかったんです。
けれど、ある人が云いました。死霊化するというのは、とても苦しい事で、僕の行為は…それを救っていたんだ、って。
勿論、それで自分を正当化しようと思うわけじゃありません。だけど今の僕は、少なくとも自分の罪を知っている。そして、自分に出来るせめてもの方法で、彼等を救いたいと思っている」
掌から視線を上げ、ビリーさんは私を見つめました。
「信じていた全てに一度裏切られて、そしてようやくわかったんです。本当に信じるべきものは、ここにある、って」
ビリーさんの親指は、まっすぐに自分の胸をさしていました。
こころ。自分のなか。
私…私の信じるものは。私の本当の気持ちは。
「私、お父さんが大好き」
言った途端、涙がぱたりと零れました。
「お父さん…優しかった。辛かった筈なのに。いつもいつも、私には笑顔だった。最期のときまで、私のことだけを…。
お父さんがどんな事をしていたって、世界中の皆が非難したって、私がお父さんを好きな気持ちだけは、変えられない。絶対…!」
ビリーさんの手が上がる微かな衣ずれの音にハッとして、私は身を固くしました。
けれど、次の瞬間、その手は私の頭上に優しく置かれていました。子供をあやすように、ぽんぽん、と。
「…うん。大事なこと、ちゃんと解ってるじゃないですか」
私は唇を噛んで首を振り、はずみで涙がぱたぱたと連なって落ちました。
「でも…実験の犠牲になった人達の事を思うと、足がすくむんです。次にウェルスにあった時、私はまた戦えないかもしれない。こんなんじゃダメです…こんな私じゃダメ。強くなって、ソラリスを倒さなくちゃならないのに」
「無理に戦う事は無いんですよ。自分の気持ちに無理をさせないで。いっぺんに何もかもしようとするから、熱が出てしまうんです。
次もマリアさんが戦えなかったら…僕がまた守ります」
私は思わずビリーさんを振り仰ぎました。
その青い瞳は透きとおって優しく、どこにも怒りや憎しみの色は見つけられなくて……私は、何故ビリーさんを苦手に思ったのか、解る気がしました。
「それに、何も感じずにウェルスを倒せるマリアさんよりも、今のマリアさんの方が、僕は好きです。きっと、ニコラ博士も」
ビリーさんの眼は、少しだけお父さんに似ている。
子供扱いされていたら、私はどんどん弱くなる。だから、だから苦手だったんだ…。
でも、今は。今だけはもう少し頭を撫でていて欲しいと思いました。
「酷いことを言ってしまって、すみません…」
静かに首を振って髪を撫でてくれるビリーさんの前で、私は不思議なくらい泣けて泣けて…泣き疲れてぼんやりとした疲労感の中で、久し振りに安らかな気持ちで眠りに落ちていきました。
………夢の中でも、頭の上は変わらずに、ふんわりと暖かでした。
そして。
今日も私はゼプツェンの上、ユグドラシルの甲板で空を見上げています。
お日様が、雲一つない青空の真上に差し掛かるころ、私を呼ぶ声がしました。
「マリアさん、手伝いましょうか」
ビリーさんの声です。
私は両手と膝をついて下を覗くと、モップをもったビリーさんに笑い掛けました。
「いいえ、一人で大丈夫です。私、子供じゃありませんから!」