おやすみなさい

どうやら俺はもっと注意力というものを身につけた方がいいらしい。
鍵の掛かっていない扉があったらもっと不審に思うべきだし、男所帯の玄関に華奢な女物の靴があったなら、見落としたりしないで即座に気付くべきだ。
終わっちまった事をくどくどと悔やむのは性に合わない。だが…。

「兄貴ー、ちっとパソコン使わせてくれよ」
勝手知ったるマンションにずかずかと上がり込んで、挨拶替わりに用件を告げながらリビングに踏み込むと、西日のまぶしさに目を射られた。秋の終わりの夕日は何かを呪うように紅く、かすめただけでくっきりと網膜に残光を焼き付ける。
なんだよ、ブラインドくらい降ろせばいいのに。
眼を庇って腕を翳しながら兄貴?と呼びかける。
答えたのは細い女の声だった。
「拓哉先輩…」
「うおわっ!」
心臓が跳ね上がるとはこういうことを言うのだろう。俺は心臓だけではなく身体ごと飛び上がりながら、声の方向を見やった。
逆光に身の半分を沈ませてはいるが、そこに立っているのが白石であることはすぐにわかった。
いつもののほほんとした微笑みに、申し訳なさそうに下がった眉を乗せている。
お前、何やってんだ?
驚きで言葉が上手く出てこなかったが、白石は察したらしく、そっと顔を斜め下に向けた。
俺はそのときはじめて、長身をソファに沈ませて静かな寝息をたてている兄貴に気付き、今度こそ本当に言葉を失った。
歳が離れているせいで、俺が生まれたときには既に桐原貴人という男は完成されていた。
身体の成長はもちろん性格も、生き方も、それを決める切っ掛けになった深い傷も、とうに兄貴についちまった後だった。
17年間見慣れた兄貴だ。
だが、17年間で初めて見る、兄貴の寝顔だった。

いままさに掛けるところだったのだろう、広げた毛布を胸の前に垂らし、逆光に輪郭をふちどられてほんのりと微笑みながら寝顔を見つめる白石の姿は、なんだか宗教画にでも出てきそうに見えた。
「眠ったのか、こいつ」
別に何が危険なわけでもないのだが、つい、怖い物でも見るように声をひそめてしまう。
「はい」
大きく頷くと、白石は膝をついて毛布で兄貴を覆った。
ふと風を感じて振り向くと、リビング脇に大きく取られた窓が掌一枚分ほど開いていた。
あと一歩で冬に踏み込む季節だ。日暮れの風はつんと氷の匂いを乗せて冷たい。
しょうがねえな、毛布より窓閉めるのが先だろうに。
歩み寄って窓枠に手をかけると、白石が「あ」と声を上げた。
「なんだ?」と振り返ると、慌てたように肩を竦めて首を振った。
「なんでもないです」
「変な奴だな」
変な奴は俺だ。窓にきつく頭を押し付けながら思った。白石がいなければガンガンとぶつけたいくらいだ。
いまの一瞬で思い至ったのだ。
換気が要るでもないのに窓を開けて、玄関には鍵を掛けずに、差し込む西日にブラインドを降ろさずにいる。それが、部屋に招いた異性に対する古風な礼儀だということを。
部屋に入れるなら、おかしな誤解を受けるわけにはいかないと几帳面に説明しながら窓を開ける兄貴の姿が浮かんだ。
古い男だな、兄貴。
なんて古くさく、不器用に、大切に扱っているんだ、白石のことを。
自分の望みだけでこいつを九艘にしちまった俺とはえらい違いだ。

なあ白石、俺は終わっちまった事をくどくどと悔いるのは性に合わない。
だが、こんな俺でも心から、そしていつまでも悔やみ続けるだろうって事がふたつだけある。
ひとつはお前を九艘にしてしまったこと。お前の人生を取り返しのつかないほどにねじ曲げてしまった。
この先どんなにお前が笑ってくれても、俺は一生お前に済まないと思い続けるだろう。
そしてもうひとつは、お前にちゃんと伝えられなかったこと。
あの日お前にとんでもない災難をもたらしたガキは、あれから片時もお前を忘れる事は無かった。
いつかもう一度お前の前に立って、出来る事なら一緒に生きて欲しいと、そう頼むつもりだった。
それをとうとう伝えられなかったことが…俺の人生のふたつめの後悔だ。

窓枠に手をかけたまま肺が空になるほどの溜め息をついていると、柔らかな声がした。
「拓哉先輩、私そろそろ失礼します」
振り向くと白石は既にコートを手にしていた。
寮の門限にはまだ時間があるが、いまの季節日が落ちるのが早いから、確かにそろそろ帰った方がいいかもしれない。
「いいのか?」
兄貴を見ながら問うと、
「はい」
穏やかな眼差しを俺と同じ場所に向けて、白石は頷いた。
その横顔に視線を移し、俺は、自分の後悔がほんとうに行き場を無くしてしまったのを、改めて知った。

寮のエントランスに白石が消えるのを見送り、その足で兄貴のマンションに引き返した。
さすがに寒さが染みてきて、ポケットに手を突っ込んで歩く。
鬱陶しいまでの紅はどこに消えたのか、空はすっきりした紺とあさぎの中間色だった。星がひとつ。
玄関の扉をあけるとすぐに、コーヒーの香りが鼻先をくすぐった。
明かりが煌煌と灯り、きっちりとブラインドの降ろされたリビングでコーヒーを落としていた兄貴が、眼を上げて俺を見た。
「戻ったのか。鼻のいい奴だ」
ポットになみなみと満たして、何言ってやがる。俺の行動なんかこいつはいつもお見通しだ。
幾分むかついたがそれよりも聞いておかねばならない事があった。
「いつ起きた?」
カップに向けてポットを傾ける手を止め、兄貴は俺に向き直った。僅かに眉を上げて、ふっと笑ってみせる。
どうやらさほど馬鹿でもないらしいとか思ってる顔だ。くそ、またむかついたぞ。
「お前が、おかしな声を上げた時だな」
俺は大きく息をついた。
言いたい事は心の中に渦を巻いている。だが、無理に引き出せば、どれも相応しい言葉にはならないだろうと思った。
頭の中の引き出しを引っ掻き回すような気持ちでいると、兄貴が低く呟いた。
「言わなかったのか」
はっとして顔をあげる。静かな眼が俺を捉えた。
「…何をだよ」
「言いたい事があったんだろう」
だから歳の離れた兄弟ってのは嫌なんだよ。何でもかんでも察知して、先回りして、お膳立てして。
俺はそんなにも、手を貸してやりたいような子供に見えるのかよ。
今更、俺が白石を望んだとして、何がどうなるってんだ。大体、白石の気持ちはお構い無しなのかよ。
ごちゃごちゃのままの感情が喉元までせりあがってきたとき、ソファーの片隅に畳まれた毛布の柔らかな色調が眼を奪った。
自分を隣において眠るようになった恋人をみつめる白石の、あの、誇らしげな瞳。
ああ、そうだ。もうあいつはたったひとつの道を選んでいるんだ。
俺や兄貴がみっともなく躊躇って、うろうろと迷い続ける場所。そこに白石はまっすぐに踏み込んで、兄貴の手を取り連れ出すだろう。
その意志は俺にも、兄貴にさえも変えられないものだ。
吸い付けられるように毛布に意識を向け、俺は荒れた胸が途端に凪いで行くのを感じながら口を開いた。
「俺は」
俺は、春からの一連の騒ぎの中で、氷がほどけるように白石に心を預けて行った兄貴を知っている。
人間から九艘へ。過去に兄貴が愛し、手ひどい仕打ちで去っていった女と同じ立場の白石が、今度は兄貴を救ってくれる。
俺はそれを喜ばなくちゃいけない。20年の眠りのない夜から兄貴を連れ出してくれた白石に感謝しなくちゃいけない。
だが、心の隅から隅まででそう思う事ができなかった。余計な部分が邪魔すんだよ。
俺はそういうのがたまらなかった。兄貴が心とは裏腹にいつまでたっても白石に距離を置いて、俺の気が済むのを待ってるのも。

あいつのことを、諦めたなんて思うのは嫌だった。
兄貴に譲ったなんていうのはもっと冗談じゃねえ。
そうやって自分の心に答えを見つけられないまま、随分長く迷ってしまった。ほんというとついさっきまで。
だけど、兄貴の寝顔を心底幸せそうに眺めている白石を見たときに、ふっと思ったんだ。
そうか、眠らせればいいんだって。
伝えられなかった想いは、ずっとこの胸に眠らせておく。なくなりはしないが、目覚めることもない。
きちんと畳まれた毛布から視線を外して、俺はちょっと笑ってみせた。
兄貴が眼を見開くのがわかる。滅多に驚かない奴なんだけどな。
「俺は、ねえよ。何も言う事はない」
これからもずっと。そして、俺は兄貴が何か言うより先に、大きく背中を叩いた。
「にしても、しょっうがねえなあ。部屋に彼女呼んどいて居眠りなんかしてんなよ」
不意打ちのせいだけではなく、兄貴は噎せて身体を折った。危ういところで受け皿に放り出されたコーヒーカップが悲鳴を上げる。
「そ、ういうことを大声で、軽々しく言うな」
片手で口を覆い、涙眼になった兄貴がようよう言葉を絞り出した。
「白石君の、名誉にかかわる」
古い男だよな、兄貴。俺は苦笑して受け皿ごと自分のカップを引き寄せた。
「もう眠れるんだな、兄貴。よかったな」
コーヒーを含む前に、ふと思い出したように口をついたその言葉はまじりっけなしの本音で、俺は心の底から安堵した。
よかったな、兄貴。よかったな…俺。
そうひとりごちて、別れ際の白石の笑顔を思い浮かべた。
俺はこれから幾度でも、あの笑顔を思い出すだろう。
会えないでいる間、幼友達の少女の笑顔を忘れる事がなかったように。

送って行った寮のエントランスで、丁寧に礼を言って背を向けようとした白石を、俺は呼び止めたのだった。
「なあ」
「はい」
「あれ、俺にも言ってくれないか」
「あれ?」
「さっき兄貴に言ってたやつ」
帰り際に白石は兄貴にそっと声をかけていた。眠りを守るように、あくまでもそっと。
白石はぱっと赤くなった。聞いてたんですかと呻くのに、
「聞いてたというより、見た。面白かった」
そう言ってやると両手で顔を覆ってうわーと叫びながら座り込んだ。
眠る相手の耳元に口を寄せて語りかけていた、という行為そのものが恥ずかしいのだろう。確かに恥ずかしい。
「見てないと思ったのに」
座り込んだまま嘆く白井に、重ねて頼んだ。
「言ってくれないか、俺にも」
声の真剣さに気付いたのか、白石は頬から両手を外し、俺を見て立ち上がった。
こいつは相手の切実さを認めると、くだくだと説明をもとめない。
白石はまっすぐに俺を見上げて、予期した通りの言葉を紡いだ。
あの日、無邪気に俺の言葉を信じておまじないを受け入れた少女と同じ、春の陽を思わせる柔らかな微笑みで。
今は、俺の心を眠らせるために。

「おやすみなさい…拓哉先輩」

あとがき

失恋話なんか書いていますが、私は拓哉先輩がいちばん好きです。
この不器用で、だけどひたむきに陽菜を好きなひとがいなかったら、おはなしを書きたいほど水の旋律をすきになったかわかりません。
本当なら、このお話の季節は「緋の記憶」の頃なのですよね。手元にはあるのですが、2を未プレイでして、結構ずれたことを書いていると思いますが、どうかご容赦下さい。
遊んじゃったらもう新作はあそべないとおもうと…(´;ω;`)