さくらダンス

怠い。
朝ってやつはどうしてこう怠いんだ。
「じゃ、爺ちゃん、行って来るから」
いっておいでという声とコーヒーの香りを背の向こうに閉じこめて深く息を吐き、歩き出す前になんとなく空を見上げた。
春の空ってやつは、どうしてこうすっきりと晴れる事が無いんだろう。花曇りなんて字面は綺麗だが、実際にはこっちを憂鬱にさせる。こんな季節とっとと過ぎてしまえばいい。いや、それを言うならこれからの三年間そのものが。
くすんだ水色の空を疎ましく見上げながら、俺はもういちど怠い、と呟き、肩で大きく息を吐いた。
まだ入学式から一週間しか経ってないなんて、冗談じゃないぞ。
成績を落とさない事、学校生活で問題を起こさない事。
爺ちゃんと一緒に暮らす為に両親に呑まされた条件を思い出してうんざりしながら、海辺の舗道を歩く。
いまのところどちらも上手くいっている。まあ、たかだか一週間では学期末の成績まで保証出来ないが、それほど背伸びして高校を選んだわけではないから、たぶん大丈夫だろう。
「つーか…あいつらってほんと世間体しか考えてないよな」
家を出るまでの騒動はあまりに不快な記憶なので、思い出すとうっすらと吐き気がこみあげた。呟く事でそれを紛らわせ、潮風を深く吸い込む。足元で砕けた波濤の細かな粒子がそのまま海の香りとなって胸を満たし、眼を瞑った。海は好きだ。
少し気を取り直して、手すりを軽く叩きながら歩く。入学早々にとんでもない事故の現場となった呪われた通学路だが、すぐそこまで海が迫っているのはいい。
視線を投げると海もまた曖昧な緑白色で、俺は眼を細めて水平線を見極めようとした。
「あー…、だめだな。眼鏡かけないと」
淡くぶれる線はひとつに定まらず、無理にみつめると目眩を起こさせた。軽く瞼を抑えながら、また視力が落ちたかもしれない、と思う。
「寝不足もあるかな…」
あくびを噛み殺しながらなおも歩き続けて、海に背を向けるように角を曲がると、学校へのゆるやかな坂道に入り、開けていた景色が急に狭まる。

道の両側から枝を差し掛けるのは桜の木だ。満開の盛りを過ぎて、枝に残る花は二三日前からゆるゆると散り続けている。
今朝はすこし早めに出てきたから、生徒の姿はちらほらと見かける程度だけれど、制服を見ると憂鬱がいっそう重く沈み込んできた。
…今日も無理矢理笑わなきゃならない。
何なんだろうな…俺、何やってんだろうな。
自分を偽って、周囲にいい顔して。あんなくだらない連中との約束のために。だけど、爺ちゃんと暮らすためにはそれを守るしかなくて。
まるで頭上に手を置かれて無理矢理押さえつけられるような、こんな時間があとどれだけ続くんだろう。
ちくしょう。俺は、早く自由になりたい。誰かの許可がなきゃなにひとつ決められないなんて、そんな日々を一刻も早く終わらせたい。

感情が果てなく激していきそうになったとき、ふと目の前を桜の花びらが流れた。
はっとして、頭を小さく振る。知らずに固く握りしめていた拳をほどいて、小さく息を吐く。
視線をあげると、先を歩く小さな背中に気がついた。まだいかにもぎこちなく、着こなせていない様子がまる分かりの、どこか幼いグレーの制服。
「あいつ…」
後ろから見ただけで、もうボンヤリなのがわかる、無警戒にほたほたと歩くその姿。
そんな風に歩いてるからひとにぶつかったりするんだお前は。
心の中で毒づき、俺はその呑気な後ろ姿をねめつけた。
追いかけて、チョップのひとつでもくれてやろうか。
そう思った時、あいつが妙な歩き方をしているのに気付いた。大きく、小さく、不規則な歩幅で、時折跳ねるようにして。
あぶなっかしい奴だとは思っていたけれど、あんなに変な歩き方してたっけ。
淡く影を落とす枝の下、時折降る花びらを肩に滑らせながら、猫のように気まぐれな足取りで進むあいつ。不自然に身体を傾けるその度に、肩の上で切りそろえられたうす茶の髪が踊る。
なんとなくその姿に引かれるように歩調をゆるめた時、不意に強く風が吹いた。

頭上の枝がしなり、ざあっと音が走って、あいつの上に、時ならぬ雪のように薄紅の花弁が降りそそぐ。
立ち止まったあいつが、感嘆の声をあげるのが聞こえたような気がした。
頭上を見上げ、すうっと空に差し出された右手の上に、魔法のように花弁が舞い落ちる。
自分も立ち止まって、思わずその光景に見入っていたのに気付いたのは、あいつが再び歩き出した時だった。
そして同時に、その妙な歩き方の理由に気付いた。
あいつは、地面に落ちた桜を避けながら歩いているのだった。

「ばっ…」
莫迦かと口にしかけて、慌てて手で覆った。思わず止めてしまった足を踏み出す事が出来ずに、後ろ姿を見送る。
道に落ちた花を踏まなかったからといって何が変わるわけでもない。散ってしまった花は踏まなかったとしてもいつか朽ちて地に還るしかないのだ。
けれど、一歩一歩慎重に歩を進めるあいつがまるきり無駄な事をしているとは、何故か思えなかった。
曇り空がほんのすこし割れ、遠ざかる背中に陽が落ちる。眩しさに眼を瞑った。
「…幸せなやつ」
そう呟いている自分がどんな顔をしているかわからなかった。
あいつが少し、妬ましくて。けれど、同時になんだか突き抜けたように明るい気持ちにもなっていた。
きっとあいつは、こうやって大切に大切に毎日を過ごしているのだろう。
俺が気付きもしない日々の些末な出来事のひとつひとつを、花びらでも受け取るように胸に納めて、嬉しそうに笑いながら。
なんでそんな風にしてられるんだよ、お前。

俺にはダメだ。到底無理。だけど…。
視線を落とせば、吹き寄せられた花弁がくるくると踊って、桜色の吹きだまりを作っている。
強風に付け根からやられたのか無傷で落ちている一輪を見つけ、身を屈めて拾い上げた。
花を傷めないように拳をゆるく握って、走り出す。急いでいるから花を避けたりは出来ないけれど、足を落とす回数を減らすために、出来るだけ歩幅を大きくして。
小さな後ろ姿は、すぐに間近に迫った。
足音に気付いたあいつが振り向く瞬間に、頭にチョップを落としてやる。
「ボーッとしてんな!」
「佐伯君」
涙眼で見上げて来るこいつを前に、自分がどんな顔をしているか知っている。
「いまの、結構いいとこ入ったよ」
頭を擦ろうとするのを遮って、手を伸ばす。
うす茶色の髪の天辺をふわりと撫でて、掌を置いた。
「ごめんな、そんな力入れたつもりないんだけど」
掌を通して、びしっと硬直する感触が伝わってきた。みるみる頬が熱を帯びた朱に染まる。
少し経って、やっとつっかえつっかえの言葉が返って来る。
「え、あ。う、うん。平気」
「じゃ、俺、先行くから」
「あ。うん、じゃ、ま、また教室で」
ロボットみたいににぎこちなく手を上げるのを眼の端で捉えながら、俺はゆっくりと踵を返した。
予想以上に壊れたその姿に、吹き出しそうになるのを必死で堪えて。
ああ、俺、いまはじめて猫かぶりスキルを自分のために使ってるかも。

歩きながら見上げる空は、相変わらずすっきりとは晴れない曇天で。
けれど、この道を通う日々は、無駄な事ばかりじゃないかもしれないと思った。
振り返れば、桜の雨の中であいつが手を振る。輝くちいさな桜の冠を載せて。

あれは、俺のための目印。
あの花の前でなら、俺は、ずいぶんと楽に笑える。

あとがき

瑛の感じているイライラについては、なんだかわかるなぁ…と思って、ついつい目線も甘くなってしまいます。
ゲームではあっという間にデレてしまうのが残念でした。チョップを繰り出しあっているくらいのふたりが、好きなのです。
作中、事故チューの時期だの桜の時期だの結構適当です。すみません…。