子供の頃の夢を見た。
なんだっけ、あの遊び…。
射し込む朝の光のなか、俺は半身を起こして考えた。
夢の中で聞こえていた小さな子供の声が、まだ耳に残る。
眼をつむる。
思い出せない。
ちょっと息をつくと、俺はベッドを降りた。
子供の頃の俺は、いまとは違った。
いまの俺は、自分の事を好きではない。
が、あの頃は好きでも嫌いでもなかった。
この違いは大きい。
ものおじせず振るまい、近所のガキどもと遊びほうけ、大人ぶって仲良しの女の子に絵本を読んで聞かせた。
そんなころの、遊び。
遊び仲間の子供で、二つのグループを作る。
そして唄をうたいながら、互いに相手のグループから自分の方に欲しい子供の名前を呼び合う。
リーダーがジャンケンで勝てば、指名した子を手に入れることができる。
…ちょっと残酷だよな、いまにして思えば。
いつまでたっても名を呼んでもらえない子供だっていたかもしれない。
いまの、俺みたいだ。
放課後の図書室は、珍しいことに無人だった。
少しほっとしながら立ち並ぶ書架の間をすり抜け、歩く。
このへんか、と思われる本を手に取って眼を落とす。遊びの名前はすぐにわかった。
「…なんだ、そのままだったんだな」
歌詞のなかの一節が、そのまま使われていた。
夢の中で全文を思い出せていれば、その名前にもすぐ思い至ったろうに。
ほっと息をついたとき、通路からの陽射しがふと陰った。
「葉月くん?」
呼ばれて視線をむけると、上半身をこころもち斜めに倒して、書架の陰からあいつが覗き込んでいた。
驚いたように見開かれた眼をみていると、幼い子供の声が耳の奥に蘇る。
胸に鈍い痛みを覚えながら、俺は手にしていた本を閉じた。
「なにしてるの」
「本…。ちょっと、調べもの」
あいつは困ったように笑った。
「あのね、図書室、いま、使用禁止なんだよ」
俺が黙っていると、さらに笑いながら、今はテスト期間中だから図書室は閉鎖されており、この時間、学校に残っているのは教師以外では自分達くらいのものだと言った。
「ああ…、そういえば。受けたな…テスト」
あいつは大きく溜め息をついた。けど、嫌な感じじゃない。
保護者のような眼をしている、と思って複雑な気持ちになる。
「おまえ…」
「ん?」
「なんで、いるんだ」
「私は、これ」
言って、胸元を示す。図書委員の胸章が光っていた。
「何日も閉鎖されたら、ホコリもたまっちゃうからね。
ちょっとだけ、掃除しとこうとおもって」
閉鎖中の図書室は当然鍵がかけられているが、こいつがバケツの水を替えに出た所に偶然、俺がはいってきたということらしい。
「葉月君、よかったら」
そう言いながら、一歩踏み出す。
俺は反射的に身を引きそうになり…姿勢を正すことで、誤魔化した。
手にした本を見られるのが、なんとなく嫌だった。
あいつは踏み出した足をもどして、何も気付かなかったように笑顔で続ける。
「いっしょに、帰ろうよ。掃除道具片付けてくるから、待っててくれる?」
「ああ…、かまわない」
本を棚に戻し、出ていくあいつを見送って、窓辺に置かれた椅子のひとつに座り込んだ。
また、自己嫌悪の種が増えた。
束の間、まどろんでいたらしい。
俺は、頭の後ろにばさばさとあたるカーテンの感触で眼を覚ました。
うっすらと眼をあける。視界が白一色だ。すぐに夏服の白だと思い至った。
座り込んだ俺を両腕で囲うようにあいつが立っている。
窓を閉めようとしているらしい。鍵の部分がちょうど俺の真後ろになるので、こういう格好になったのだろう。
俺を起こさないようにしているうえに、カーテンが盛大に風を孕んでいるせいで、 やり難そうだ。背が足りないものだから、つま先立ちした足が震えている。
一瞬、起きたことを告げて退いてやろうかと思ったが、俺はまた眼を閉じた。
あいつが、ひぃ、ともああぁ、ともつかない声をあげて、身を引いた。窓はまだ閉まっていないが、足がつったらしい。
…ヘンな奴。
そう思っていたら、不意にふわりとした熱が迫った。
耳に、唇の感触。
一瞬でそれは離れた。追い掛けるように、カーテンががさりとした機械織りの感触でひるがえり、すぐに力を失って垂れた。窓が閉まったらしい。
カチリ、と鍵の落ちる音を聞いてからゆっくり十数え、俺は立ちあがった。
自習用のテーブルの上で帰り支度を整えていたあいつが視線を上げ、大真面目に驚いてみせた。
「どうしたの、葉月君。耳、真っ赤だよ」
俺はうろたえなかった。
まっすぐに、あいつの耳が、恐らく俺以上に赤いのを見ていた。
灼けたコンクリートに触れたときのように、じんわりとした熱が、耳と、胸とに広がっていた。
幸福感を伴う、不思議な痛み。
子供の声が耳もとで囁いた。
あのこが、ほしい。
無邪気にそう言えた頃の自分には戻れない。
だけど、こいつの行動ひとつで、俺は自分を好きになれる。
こいつを望むに足る男になりたいと、そう思える。
いつかその日がきたら、俺は、お前に告げたい言葉があるんだ。
けど、いまはとりあえず。
「ああ…、寝てる間に、なんかに刺されたかも」
そう言って笑いかけると、あいつは、なんとも複雑な表情をした。